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憂えるだけでは、嘆くだけでは何も変わらないこの国。 子供たちへの「ゆずり葉」となるために、現在を見つめ直すひとりごと。

 子どもたちよ これは譲り葉の木です。 この譲り葉は 新しい葉が出来ると 入り代ってふるい葉が落ちてしまうのです。  こんなに厚い葉 こんなに大きな葉でも 新しい葉が出来ると無造作に落ちる 新しい葉にいのちを譲って──  子供たちよ お前たちは何を欲しがらなくても 凡てのものがお前たちに譲られるのです。 太陽の廻るかぎり 譲られるものは絶えません。   輝ける太陽も そっくりお前たちが譲り受けるのです。  読み切れないほどの書物も みんなお前たちの手に受け取るのです。  幸福なる子どもたちよ お前たちの手はまだ小さいけれど──    世のお父さん、お母さんたちは 何一つ持ってゆかない。  みんなお前たちに譲ってゆくために いのちあるもの、よいもの、美しいものを 一生懸命に造っています。  今、お前たちは気が附かないけれど  ひとりでにいのちは延びる。  鳥のようにうたい、花のように笑っている間に  気が附いてきます。  そしたら子供たちよ、  もう一度譲り葉の木の下に立って  譲り葉を見る時が来るでしょう。..... 


麻生首相バーナー 

■麻生太郎首相:平成21年年頭所感

未来を創るのは、私たち自身です。

日本や世界が「どうなるか」ではなく、私たち自身が「どうするか」です。


受け身では、だめです。望むべき未来を切り拓く。そのために、行動を起こさなければなりません。



■首相官邸:第171回国会における麻生内閣総理大臣施政方針演説 (平成21年月21日)


1.目指すべき社会
〈安心と活力ある社会〉より、一部抜粋

 現在の豊かで安全な日本は、私たちが創ったものです。未来の日本もまた、私たちが創り上げていくものです。
 過去二回そうであったように、変革には痛みが伴います。しかし、それを恐れてはいけません。

 暗いトンネルの先に、明るい未来を示すこと。それが政治の役割です。
 良き伝統を守り発展させる。その為に改革する。それが、私の目指す真の保守であります。

 私は、世界にあっては「新しい秩序創りへの貢献」を、国内にあっては「安心と活力ある社会」を目指します。


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■麻生首相:ダボス会議にて麻生総理講演(1/2)



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■マスコミが隠す麻生太郎

■麻生政権の実績




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2008.08.13(Wed)

はーと 「ゆずり葉」~下~はーと   今、お前たちは気が附かないけれど  ひとりでにいのちは延びる。  鳥のようにうたい、花のように笑っている間に  気が附いてきます。  そしたら子供たちよ、  もう一度譲り葉の木の下に立って  譲り葉を見る時が来るでしょう。..... はーと

カエル  本日はいつもと順番が逆で、後にお知らせがあります。
 何と言いますか‥、先に不愉快な話題をサッサと片付けてしまいたいという心理が働いている管理人。メインが一番最後になりますので、面倒な方は(?)年寄りのくどい愚痴は飛ばして、先に進んで下さいな。
 まぁ、特にこの1年は、こうまで政権が(それなりの人に)変わると「国」全体が傾斜していくものだという実感を肌で感じ、〈呆れ蛙〉のカエルがフル出場なわけです。この子に罪はないのですが、何となくそんな風な位置付けになってしまったピョイン君。出来ればジャンプした後で〈ひっくり蛙〉の仕草もして欲しいと、実は作者様にお願いしたいくらいです。

         ◇          ◇          ◇

 管理人は殆ど北京五輪中継を観ていませんでした。でも、テレビを付けると否応なく目に入ってきます。まして周回コースの各blogでも取り上げている方が多いこの期間。…と言っても、メダルが云々という取り上げ方ではないのは承知の上ですから、これまた否応なく「不愉快な話題」に接することになります。

 北京五輪関係で言えば、“又何かあったの?”という意識でみてしまいますし、どんなに必死に体裁を繕い、国の威厳を見せつけようとしても、所詮付け焼刃は付け焼刃かと──。

 そんな折、偶然に合わせたチャンネルで「バトミントン」の試合が放送されていました。管理人でさえ知っている「オグシオ」ではなく別のペアでしたが、対戦相手は開催国支那。そして御存じのとおり、シード1位の支那ペアに勝利した瞬間もバッチリ目撃して、ヨカッタ・ヨカッタ♪ と二人の健闘を讃えていたのですが…。

 
「殺!殺!」報復応援に委縮:オグシオコンビVS中国ペアとの準々決勝で。

前日の「スエマエ」ペアが世界ランク1位の中国人ペアに勝利したことで、その報復として中国人応援団が大挙してオグシオに大ブーインをした。 


 そう言えば、「スエマエ」ペア-末綱聡子(27)、前田美順(みゆき)(22)-の試合でも日本側がポイントを上回ってくると、シャトルを打つ度に声を合わせる観客の声が聞こえていましたが、それは一体何と言っていたのでしょうね。

 それにしても、「殺せ!」コールとは──427 ブー

 この国の異常な“ジコチュウ”ぶりが発揮されたということでしょうか。
 そもそも管理人が「中国」と呼ばず「支那orチャイナ」と呼ぶ理由もそこにあります。簡単に言うと「中国」とは〈世界の中心〉という意味で、覇権国家の飽くなき野望を意味する言葉なんだそうですよ。この話はいつか取り上げたいと思っていたのですが、後日に。

 でも、こうした記事を載せていたblogもありました。(要訳)

 礼節ある「文明応援」で、20万人も養成している「公式応援団」は、各会場で中国人の応援ばかりに偏らないように相手国を応援するために準備。
 バランスと取っているつもりらしいが、観戦総数800万人のうち一割近くが「やらせ応援団」ということらしい。自国民のマナーにはよほど自信が持てないらしい。


 
 だそうです。でもそれも意味を成さないようですね。外国人が溢れた競技場内で「殺せ!」コールでは、隠しようがありません。
 自国さえよければ「何でもアリ」な国チャイナと、それでも友好なんでしょうか?


     welcomeライン 
 


          133 ~お知らせ~ 133

 

8月15日『終戦記念日』には、みんなで「護国寺」へ行こう!!



 こう呼び掛けていらっしゃるのは、「KNN TODNY」様です。



本日は皆様に提案がございます。

 それは、北京五輪中に日本の首相として靖国神社へ参拝すればシナ(チャイナ)共産党の反応が見モノだったにも拘らず、福田康夫首相では全くどうしようもありませんので、私たち国民の意志を毅然と示そうというものです。

 とはいえ、全国民が東京九段の靖国神社に行く事は叶いませんので、皆様がお住まいの各都道府県にある護国神社へ参拝しましょう。無論、東京都民の皆様は、どうか靖国神社を宜しく頼みます。



 護国神社(ごこくじんじゃ)は、日本の各県に建立されている、その県出身の戦死者・自衛隊殉職者などを、日本国に殉じた英霊として祀る神社です。

■全国護国神社一覧


靖国神社拝殿 

■靖国神社


8月15日午前10時より 「日本の声─英霊に感謝する集い」放鳩式

場所 : 境内能楽堂前


英霊に「ありがとう」の感謝の言葉を唱和し純白の鳩を大空に放つ「日本の声―英霊に感謝する集い」が行われます。
この放鳩式には、白鳩の会会員以外の方も自由に参加できます。多くの方々に御参加戴き、英霊に感謝の誠を捧げて戴きたく存じます。


『白鳩の会』のご案内

現在、靖国神社には約300羽の白鳩がおり、境内の鳩舎で大切に飼育されています。
白鳩の飼育管理と会の運営は、靖国神社白鳩の会会員の御協賛によって維持されています。

 ▼白鳩の会の趣旨▼
  本会は、平和の象徴といわれる純白の鳩を境内に放ち「みたま」をお慰めすると共に、その鳩の  美しい姿を通じて、やがて成長し、次の世代をになう少年少女の心に、平和の尊さと「みたま」に  対する崇敬の念を育むことを目的としています。

                    

 

 『氷雪の門』という映画をご存じですか?

『氷雪の門』の意味とは、
 「樺太が返ってくるまでは、氷の上でじっと待っている」
 
という意味だそうです。(『正論』H15年1月号)



北海道稚内市にある『氷雪の門』

氷雪の門 

 この実話をもとにした映画『氷雪の門』は、文部省など各行政機関が支援するはずだったものが、ソ連からの抗議を受け、上映の際にも『日ソ友好協会』から抗議を受けて上映中止になった。

製作年:1974年
出演者:仁木れるみ
     鳥居恵子  
     岡田可愛
     岡田由紀子
     八木孝子


「国内最後の地上戦」と「北のひめゆり」-樺太の戦闘と「氷雪の門」

 北海道の北端、宗谷海峡をはさんで樺太の対岸に位置する稚内市。その西側の小高い丘陵に、稚内公園という広大な公園がある。ここの丘は、別名を「望郷の丘」と呼ばれている。丘の北端には、高さ8mの2つの白い塔とその間に高さ2.4mの乙女の像がある。 これが世に名高い「氷雪の門」である。

 日露戦争の勝利による明治38(1905)年のポーツマス条約で、日本領となった樺太には、炭鉱やパルプ工場などで働く多くの日本人が住んでいた。その碑文には
 「人々はこの地から樺太に渡り、樺太からここに帰った。戦後はその門もかたくとざされた。それから18年(昭和38年建立)、望郷の念やみがたく、樺太で亡くなった多くの同胞の霊を慰めるべく、肉眼で樺太の見えるゆかりの地の丘に…」とある。
 当然のように行き来していた門は、突然閉ざされたのである。

 この立派な大きな「氷雪の門」の傍らに、小さな石碑がある。
 昭和20年8月20日、樺太の真岡電話局で、9名の若い女性電話交換手が、迫りくる戦火の中、崇高な使命感のもとに職務をまっとうし、ついに青酸カリで自決した事実を知らせる慰霊碑「九人の乙女の碑」である。

 「戦いは終わった それから五日 昭和二十年八月二十日 ソ連軍が樺太真岡に上陸を開始しようとした その時突如日本軍との間に戦いが始まった 戦火と化した真岡の町 その中で交換台に向った九人の乙女らは 死を以って己の職場を守った 窓越しに見る砲弾の炸裂 刻々迫る身の危険 今はこれまでと死の交換台に向かい 「皆さんこれが最後ですさようなら さようなら」 の言葉を残して静かに青酸カリをのみ 夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。戦争はふたたびくりかえすまじ 平和の祈りをこめ尊き九人の乙女の霊を慰む」

現在の碑文にはこうある。

 しかし、かつての碑文は下記のようなものであった。

 「昭和二十年八月二十日日本軍の厳命を受けた真岡電話局に勤務する九人の乙女は青酸苛里を渡され最後の交換台に向かった
 ソ連軍上陸と同時に日本軍の命ずるままに青酸苛里をのみ 最後の力をふりしぼってキイをたたき
   「皆さん さようなら さようなら これが最後です」
 の言葉を残し 夢多き若い命を絶った。戦争は二度と繰り返すまじ 平和の祈りをこめて ここに九人の乙女の霊を慰む」

 一見してわかるように、純粋な「使命感」から職場を守り、乙女の純潔を守るために覚悟の自決をした彼女たちの死の真実をゆがめ、「悪い日本軍」の命でやむなく自決に追い込まれたかのように事実を歪曲して伝えることが行われていた。
 戦後の歪んだ価値観は、事実を曲げ、純粋な乙女の行動を冒?(冒涜の「涜」は正しい文字ではない俗字。さんずい+賣が正しい)して恥じない人々を生み出したのである。

 「北のひめゆり」の話は、沖縄のひめゆりのように広く普及していない。樺太で自決した乙女たちは彼女たち9人にとどまるものではない。同様の悲劇は随所であった。

 現在、沖縄のひめゆりたちは、反戦平和主義者に洗脳され、悪宣伝に利用されている。その成果がこの情報量の格差になって現れているとみることができる。
 しかし、樺太の戦闘は、日本の歴史をふりかえるとき沖縄戦に勝るとも劣らない重要な意義があるように著者には思える。8月15日が終戦の日だという虚偽や、国内最後の地上戦が沖縄戦だという虚偽、日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に侵攻したソ連の暴挙、シベリア抑留や北方領土など未解決の問題を忘れさらせないためにも、樺太の戦闘の史実を広く世に伝える必要があるのではないだろうか。

 話がややそれるが、著者はアイヌ人は縄文文化を共有し、共通の祖先から分かれた日本人の仲間だと考えている。その考えでいけば、もともとアイヌの地であったと考えられる全樺太も全千島列島も、当然昔から日本の領土だったと考えて不都合はないのである。

  
ガオガオ戦略情報研究所・客員研究員<西山隠士>


 

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【ストーリー】


「樺太の北のひめゆり・第2段-ソ連軍の暴戻(ぼうれい)

 
 終戦間際の昭和20年8月8日深夜、突如としてソ連は日本に宣戦を布告し、9日未明からソ連軍は満洲の国境を突破、南樺太にも侵入してきた。当時40万以上の人口を擁した樺太は、比較的平穏な状況が続き、恵まれた島であった、ソ連軍の侵攻により突如として戦場になったわけである。

 当時樺太には第88師団(通称「要兵団」)を中心に約3万人の将兵がいたが、航空戦力は皆無であり、防衛態勢の重点は北のソ連軍にはなく、南方からの米国軍の侵攻に備えていた。

 日ソ中立条約によるソ連の信義に期待し、和平交渉の仲介までソ連に依頼していた日本は、ソ連を刺激しないため、対ソ戦に備えた積極的な準備行動は取れなかったのである。しかし、日本軍もソ連の侵攻を予想していなかったわけではなく、一定の用意をしていた。満洲の関東軍のように混乱して無秩序な敗走に至らず、非力ながら奮戦抵抗した日本軍のおかげで、ソ連軍の侵攻が遅れ、北海道の分割が避けられたともいえるのである。

 さて、樺太第3の都市、真岡町は、樺太最北の不凍港であった。ロシア・ソ連が どんなに不凍港を切望していたか、そのため、伝統的に南下政策を取ってきた歴史は周知のことであろう。真岡は当然、重要な戦略目標とされた。

 8月15日、ポツダム宣言受諾の玉音放送を聞き、もう戦争は終わったと安心していた真岡の住民は(樺太の日本軍は、なお抗戦を続けていたが)、8月20日に至って、火事場泥棒のようなソ連軍の侵攻を受けることになる。そんな中で、真岡郵便局の悲劇は起こった。当時、郵便局の電話交換手は、就職を目指す女性たちにとって、あこがれの職場だったという。電話網は国の中枢神経のような役割を果たし、日本軍や測候所との大切な通信もあり、手動交換接続の業務にあたる交換手は、厳しい正確さが要求され、きつい仕事であったが、お国のために役に立っているという誇りを持って働いていたという。

 8月20日早朝、真岡郵便局の交換室では、ソ連軍が真岡港に向かった旨の連絡 を、幌泊の監視哨から受信して危険をいち早く知った。女性交換手たちは、これをさる16日、緊急疎開するようにという指示を受けていたが、急を告げる重要な電話の機能を守るため引き揚げるわけにはいかないと主張してとどまっていた。
 その朝、交換室の監督、高石ミキさんは、宿直者全員を起こして交換台につかせ、緊急を告げるための電話回線を守った。避難する町民や他の主要な町への連絡を維持するために。

 港からは凄まじい艦砲射撃、町の角々ではソ連兵が機銃掃射を浴びせ、一般住民を見境無く次々と撃ち殺している。郵便局長の上田豊蔵さんも、郵便局に向かったが、激しい銃撃のためにたどりつくことができない。彼女たちの身にも刻々と危機が迫ってくる。電話局は警察の隣りにあるため狙われ易く、後ろが崖で逃げることができない絶体絶命の状況だった。そんな中で、9人の交換手たちは、ソ連軍の辱めを受けるくらいならと、用意していた青酸カリで自決したのであった。
 元同僚だった原君子さんは、「私も同じ立場であったなら、ためらうことなく皆と運命を共にしていたことでしょう」と証言する。自決した可香谷シゲさんは、兄に「内緒だけど万一の時には、これを飲むんだから」といって、薬紙に包んだ青酸カリを見せていたという。「皆さん、さようなら…さようなら」の声を泊居(とまりおる)の交換台で聞いた田中みよさんは、「ダメよ!生きるのよ!生きるのよ!」と絶叫したが、ついに二度と再び応答は無かったという。ショックを受けた田中さんの隣の席の同僚Aさんは、その後、大量の睡眠薬を飲んで自殺した。

 真岡での戦死者は477人(真岡町役場作製の戦災死者名簿による)にのぼった。 真岡でのソ連軍の行為は、明らかに戦意のない非戦闘員の市民に対する虐殺事件である。しかも、日本がポツダム宣言を受け入れて、日本軍が自主的に戦闘行動を中止した後での戦闘である。真岡の日本軍は停戦を求めたが、日本軍の軍使村田中尉は、非道にもソ連軍によって殺害されたのである。停戦を求める軍使を殺害するなど、とんでもない暴虐である。

 逃げ惑う人々は、真岡から逢坂を経由して樺太最大の都市豊原に向かった。しばらくして平穏が戻り、真岡へ戻ってみると、産み捨てられた赤ん坊や、逃げ遅れたために、ソ連兵に暴行された上、殺害された若い女性の全裸の死体が転がっていたという。



主要参考文献

原田実「風化する「北のひめゆり」」『正論』平成11年9月号

金子俊男『樺太一九四五年夏-樺太終戦記録』講談社

創価学会婦人平和委員会編『フレップの島遠く』第三文明社

服部卓四郎『大東亜戦争全史』原書房 


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カエル  お気付きだと思いますが、始めにした「お知らせ--護国神社へ‥」と「氷雪の門」の内容を読むと、矛盾があります。8月15日は終戦記念日ではないと──。

 映画出演者の懐かしい名前を見ると、昔観た事があるような気さえしてくるのですがハッキリとしません。多分もう一度観れば分かるのでしょうが、それほど曖昧なのですから、樺太の悲劇があった話は微かに覚えていてもそれが8月20日だった…との認識は、すっかり欠けていました。改めてショックを感じています。
 国と国との外交上の「気遣い」?「遠慮」?「圧力」?で、国民の多くが知ることもない事実が、この国にはいっぱいありますね。
 何故、ここまで卑屈なのか?と思わせられる事ばかりです。

 そして今年になって、ようやく「靖国神社」「護国神社への修学旅行や野外研修での訪問が、解禁となりました。解禁…ですよ。子供たちには禁止されていたという事です。 

 昭和24年通達のうち、「靖国神社や護国神社に学校行事として訪問を禁じた」一節の失効が確認された経緯が文部科学省から説明されました。これは衆議院議員平沼赳夫氏の質問で、明らかとなったものです。

■質問主意書とその答弁書の全文

 しかも、人類史上最悪な「原子核爆弾」の唯一の被害国でありながら、≪過ちは繰り返しません≫と反省し、平和を誓ってきた日本国民。毎年テレビ中継を見ながら、共に鎮魂の思いを胸に黙祷を捧げてきた管理人でしたが、今年は少し思いが違います。

 また、昨日12日は「日本航空123便墜落事故」の日でもありましたが、丁度30年前の8月12日(1978年S53年)曽我ミヨシさん、ひとみさん親子、市川修一さん、増元るみ子さんが、北朝鮮によって拉致された日でもあります。

 その国家犯罪国北朝鮮との実務者協議で、調査の進展によっては制裁解除もあり得るこの国の政府。その国会議員たちに拉致家族会が実施したアンケートには、約半分が回答なし(無回答の理由もなし)という無関心ぶりだそうです。

◆拉致問題回答率、首脳会談後最低に 家族会、国会議員アンケート公表
2008/08/12 18:13


 何を以って「平和」と言えるのか──。そう、考えさせられるこの夏です。

 そして来る15日には、近くの「護国神社」へ行って英霊たちへに詫びなければならないという思いがしています。勿論、20日にも樺太の地に向かって、心静かに黙祷を捧げようと思う管理人です。




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